月刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | 「奈良さんに会いたい。」そう言うとなぜかミーハー的な感じに受けとられてしまう。小沢剛さんにもそんな感じで受けとられたのか、小沢さんは酔うと「こいつの誇りは奈良さんと出身地が同じということだけなんだ。」などと毒づいたりした。奈良さんに会いたい理由はわたしなりにあって、奈良さんに会えそうになればなるほど、わたしは「奈良さんに会いたい。」と声に出して言った。 奈良さんを知ったのは今から5年ほど前になるだろうか。大学3年に進級し、わたしは国語ゼミから美術ゼミに変更したばかりで、初めてのゼミの課題が与えられた。もの3つを使って画面に構成する課題だったと思う。にもかかわらず、ゼミの中の一人の女の子がベニヤ一枚に大きな猫をどん、とかいた。注文の多い料理店にでてきそうな猫だ。合評会のとき、やはりその猫は先生の批判を浴びることになったのだが、少し間をおいて先生が話しはじめた。「わたしの愛知芸大の後輩でこの辺に実家があるちょっと変わったやつがいるんだけど、、、。」その変わったやつというのはまさしく奈良さんのことで、先生がいつも「奈良くん」というので、わたしたちの間では本人のことをよく知りもしないのに、「奈良くん」で通るようになってしまった。先生は「毎年御盆に帰ってくるとわたしの家で飲んでるんですよ。」というので、今度帰ってきたらみんなにも紹介するという話だったが、突然の“奈良くん”ブレイクにつき、その話もなきものとなった。 4年にあがり、作家を希望して先生にマンツーマンで指導を受けた。大学院受験をそのときの目標としていたわたしは、とにかく自分の使える時間すべて制作につぎこんだ。教育学部でしかも小学校教員養成過程のわたしは他の受験生に比べたら使える時間はだいぶ限られていたし、途中から美術ゼミに変更したため、数倍もの努力は覚悟の上だった。そんなハンデの中、先生の指導も拍車をかけた。また、そのハンデを逆に強みにしろ、とも励まされ、「デッサンができるからといって作品ができるとは限らない」というのが、先生の口癖だった。そんな中わたしはいわゆる、先生をうならせるまでの作品を作れるようになった。しかし、わたしは気がついた。アンチ、アンチといいながら、できたものはアカデミックなものだった。もっと飛びたい。とわたしは思った。 その時点で弘前大学で学ぶことはもうなかった。わたしは遠くても、当時影響を受けた村上善男先生のような作家になりたいと思っていた。上京し、村上先生と交流のある今泉省彦先生にデッサンを習いながら、作品をつくっていたが、いまひとつ飛び抜けることができずにいた。そこに小沢剛授業開講があった。小沢剛という人は知らなかったが、「あなたの価値観こわします。」というようなことが書いてあり、興味をもった。結局、小沢さんには入り口のようなものをたくさんみせてもらったけど、本当に自分自身を解体できるのは自分しかいない。それと、険しい指導に乗り越えたからこそ、大学の先生に教えられたことを自分の中で否定することはかなり難しい作業だった。小沢さんがそれは違う!なんていったって、本当に違うのかどうかは、わからない。美術には正しいとか正しくないとかはなく、自分がどうしたいかだ。と思ってもやはり迷い、そんなときふと、奈良さんならわかるのではないかと思った。例えば小沢さんのいうことをなかなか信じることができなくても、大学の先生をよく知る奈良さんが同じことをいえば、信じることができる気がしたのだ。会いたい理由はそれだけかといわれるとそれだけなのだが、自分にとっては重要なことなのだ。そこへ、奈良さんに会えるチャンスが訪れた。芸術道場の審査員が奈良さんらしい。早速参加した。わたしはカードをひいてもらう作品を出品し、奈良さんにもひいてもらった。カードにはこう、書いてあった。「今まで乗り降りした電車の切符をすべてカプセルに入れる」カードには何種類かの指示がかいてあり、そばにあるガチャガチャのカプセルにいれたつもりになってもらうのだ。奈良さんは「膨大な量になっちゃうな。」と笑って言った。それが、芸術道場で奈良さんとかわしたやりとりだ。 わたしは個展を終え、バイトモードに入ろうと、美術施工業の上司に電話した。オペラシティの施工中なのだ。「個展行けなくてごめんな。オペラの方はもう終わりそうだから。でも、オープニングはこいよ!」と上司。バイトが都合のよいときにできなくていつも困ってしまうのだが、お言葉に甘えてオープニングに行くことにした。ギャラリーに入ると、ギャラリーの人もバイトのみんなも揃って「個展いけなくてごめん」とすまなそうにしていて、かえって悪い気がした。 今回の展覧会は様々な業界の方々が参加していて、オープニングもいつもよりひときわ華やかだった。芸能人や著名人もたくさんいた。上司が突然言った。「おまえ奈良さんに会いたいんだろ。来たら紹介してやるよ。」いきなりでびっくりした。みるみる緊張した。上司は最近わたしが真剣に作家業を歩もうとしていることを理解してくれたらしく、しかもバイトも一生懸命でよい。とほめられたばかりだった。わたしが「奈良さんに会いたい」というのも浮ついた気持ちでないことを察してくれたらしい。しかしその日、奈良さんはなかなか来なかった。わたしはその間会場内をうろうろしたり、なにか落ち着かない感じだった。風邪で寝込んでいたらしい奈良さんはそれでも遅れて登場した。早速上司はわたしを奈良さんのもとに連れていき、「これがうちの青森の子、真紀ちゃん。」と、おおざっぱに紹介した。奈良さんはすでに数名の取り巻きに囲まれていて、自分もその取り巻きの中にいることが、どうもはづかしかった。わたしは「弘大の岩井ゼミです」と、暗号のように言った。すると、「いいゼミですね。」と奈良さんが言った。「実は一度会ったことがあるんですよ。」と芸術道場の話をしたら、覚えていた。それだけ話して、赤塚不二夫のマンガみたいにぴゅーっと逃げた。仲間のもとに帰り、ワインを飲んでいると、今度は奈良さんから話しかけてきた。確か、とってもローカルな話をした。先生の話もちょっとした。本当に話したいことは話せなかったが、その時少し、奈良さんの答えをきいた気がした。小山さんに呼ばれて奈良さんはすぐにどこかへ行ってしまった。篠原ともえと写真を撮っているらしかった。パーティが終盤にさしかかったころ背後から「ふふふっ」と笑いながら奈良さんが近づいてきたので、名前を覚えてもらおうと、名刺をわたした。そして、一言、「わたしは奈良さんを抜きますよ!!」と言った。すると奈良さんは「別に抜かなくていいよ。」と言った。後で考えると、美術は競争でないから抜く、抜かないの問題ではないのだが、なんとなく、そう、言いたかった。奈良さんに会えたことで、自分の中でなにかが一段落ついたようだ。 わたしは大学の学生寮で精神的にまいってしまい、学内のカウンセラーに診てもらっていたことがあった。最終的には環境を変えるしか道がなくなってしまい、先輩が薦めてくれた家賃15000円のアパートへ引っ越した。そこは大家さんが親切で、大学にも駅にも商店街にも近かった。そのアパートの近くに立ち入り禁止とかかれた大きな煉瓦倉庫がある。わたしはその煉瓦倉庫が大好きで用事もないのにその前を通ったり、どこかへ出かけるときもその前を通るように行ったりした。もう廃墟でしかなかった煉瓦倉庫が、今年の8月、奈良美智展で息をふきかえす。※東奥日報首都圏に生きる竹本真紀が、インターネットでみることができます。http://www.toonippo.co.jp/l-rensai/shutoken/shutoken36.html
<わき毛、、、竹本真紀展についてかかれた事柄について> | |
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