週刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | ふるさとはとおきにありておもふもの田舎からでてきて東京近郊で一人で暮らしていると、あの人は元気だろうか、とか、早く一流になって恩返ししなくては、などと、ふとしたときに気にかかる人が家族をふくめ、何人かいる。特にわたしは第一のふるさと八戸と第二のふるさと弘前とあるため、この二つの土地にそういった恩人達がいらっしゃるわけである。 先日、その、気にかかる人の内の一人がお亡くなりになった。驚いた。絶対一人前になって挨拶にうかがおうと、ずっと決めていた。知らせは突然やってきた。そして、わたしは悔しくてたまらなくなった。わたしはこちらで暮らすようになってから、すでに二つの死と対面していた。 一つは上京してお世話になった、同じアパートの秋田出身のおばさんの突然死、二つめは大学の先生の死。いずれもまえぶれなしに突然訪れ、さよならをいう間もなく、通りすぎていった。わたしは涙こそでないが、悔しさや無念でいっぱいだった。しかしながら、今回の悔しさは、まだ実感がわかないが、今までのそれには比べものにならないほどつらいものになるだろう。その、亡くなった方というのは、わたしが8才から23才までお世話になった書道の先生である。18才までは八戸の教室に通っていたが、大学入学で八戸を離れてからは、手本を郵送してもらい、続けた。周囲の友達が書道をやめていくなか、先生はわたしに書道の才能を見いだし、やめるんじゃない、と、熱心に指導していただいた。 時間がないながらも、なんとなくずっと続けていたわたしは、おかげさまで書道師範をいただきました。 そうまでしていただいたのに、わたしは美術表現に集中したいとか、手本をひたすら忠実にかくことだけでは芸術ではないと、生意気なことをいって、(月謝が払えないということもあって)長年続けた書道をやめてしまったわけである。 今回の出来事は残念な結果となった。わたしも書道はやめていたものの、書道の気持ちよさ、集中力、それをしているときの心の静まる様などを思いだし、無性に書きたくなるときがあった。そんなとき先生のことをよく思いだした。経済的に安定してきたら、また始めようかな。と思っていた矢先であった。 もう二度と先生に教わることができなくなった。と、思う反面、自分の書く字は楷、行、草すべて石橋龍翠先生流になっていることに気づいた。と、同時にうまくいえないが、文化と命の重さを感じた。前回触れた「模倣」ということがあったが、わたしは8才から23才まで先生の字を模倣し続けた。自分のオリジナリティなしで、ひたすら模倣だったのである。 それがわたしには合わなくなり、書をやめた。しかし、先生がこの世を去った今、それは自分にとって尊いものとして刻まれている。と、ともに美術家として生きていくことを決めたわたしにとって新しい課題を残したように思う。わたしは、芸術家であるよりも人間としてきちんとしていたい。 いつもそう思っている。
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