週刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | 夜、うとうとしていたところに、一本の電話が入ってきた。慌てて電話をとる。昼間、なんとなく頭にうかんできた友人からの電話であった。なにかあったのだろうかと、話をゆっくりときいていた。 それは、4月の末に起こった出来事で、彼女はただせつない、せつない、と繰り返すばかりだ。そのせつない気持ちを持ったまま、ゴールデンウィークをやりすごした彼女はそれでもおちつかず、わたしのところへ、電話をかけてきたようだ。彼女はわたしと同郷で、高校からの友人だ。東京都内の病院で働く看護婦さんだ。そもそも看護婦という職業はわたしにとってはきってもきれない職業である。というのは、母も祖母も看護婦という職業に就いていたからである。共働きのわたしの家庭では、わたしひとりを家に残しておけず、よく病院に病気もしていないのによく連れて行かれた。幼い頃は大人が目を離したすきに分娩室に入り込んでしまっていたこともあったらしい。母に注射されたこともある。さらに、わたしの卒業した弘前大学教育学部には特別教科看護教員養成課程という学科があり、そこは、いわゆる看護学校の先生を養成する場所であるが、毎年教員の募集人員が少ないので、ほとんどの人が看護婦に就職する。わたしは学生寮で暮らしていたが、その看護学科(弘大では特看という)の先輩と暮らしていた。友達も特看の子がいた。いやな寮からの脱出に協力してくれたのも特看の先輩方や友達で、わたしの周りには親元を離れても看護婦さんが常にいる状態なのだ。その、夜にかかってきた電話の向こうには、目の前の現実と必死に戦おうとしている一人の人間がいた。 彼女の所属は産婦人科。高齢者出産の患者さんが、先頃出産したのだが、その生まれた赤ちゃんが、二日で亡くなってしまったらしい。彼女は自分の妹にあたる赤ちゃんに、同じようなことがあったらしく、様々な複雑な思いをかかえていた。わたしはだまってきくことしかできなかったが、誰かになにか話すだけでも友人が少しだけらくになればよいと思った。話によると、彼女の献身的な看護に夫婦はとても感謝しているようだ。もう名前の決まっていた赤ちゃんを彼女は名前で呼びかけ、亡くなったときも夫婦とともにご焼香した。彼女は「家族の場をつくってあげたかったから。」と言っていた。わたしの母や祖母もいつも死と隣あってきた。その証拠に、周囲で人が亡くなっても冷静な二人をみてきた。友人もこれから何度死を乗り越えていかなければならないのだろう。しかしながら、患者さん夫婦にとっては、その小さな命のために悲しんでくれる看護婦がとても尊いものになったにちがいない。看護婦ならば必ず通る場所で、形式的ではなく、苦しみながらも一つのポリシーを持って行動している友人は、とても尊敬できる。社会に貢献しているな。と感じる。とどうじに自分は美術作家として、なにができるか、とじっと考えさせられる。わたしはずっと権力では世の中は変えられないと思ってきた。近くにいる人を思いやることができずに、大きなことはできないと思う。わたしはわたしにできる方法で社会に貢献していきたい。
週刊÷3
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