週刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | 先日、2日間にわたって、私の住む千葉県柏市で祭があった。その祭は全く統一性のない祭で、そのごちゃごちゃ感がおもしろい!といった風でもなかった。そこには、青森ねぶたの十分の一くらいのもの、阿波踊り、沖縄の民族芸能など、ありとあらゆるものが混在していて、わたしにはちっとも祭のわくわく感がなかった。「なにがやりたいの?」とききたくなる。祭とは義務的だ。それは何があろうと、雨が降ってずれこもうと、必ず行われる。それは、神の祭だからだと思う。そして、祭には大量のお金と手間がかかる。それにかける祭関係者の意気込みはすごい。祭は命がけである。そう思うのは私が、祭を大事にする青森に生まれたからであろうか。 よくTVで目にする、死者がでることもあるという、命がけの祭がある。太い丸太に人が乗り、がけから猛スピードで滑っていく様が印象的だ。その祭が行われる諏訪神社のある町、下諏訪に住むべくして住んでいるような方を訪ねた。駅についてすぐ、その方に電話をいれた。「途中まで迎えにいきます。私は白いズボンをはいていますから」と。「白いズボンをはいてます。」と言わなくても、私の方はよくお顔を知っているのに。その方は意外にも私と同じくらいの背丈のごく普通のおじいさんだった。私は、古くてしっかりした作りのお家の裏庭に通されて、靴をぬいであがり、ソファーに座った。やさしい奥さんもいらっしゃって、お茶を出していただいた。20歳くらいの頃の草間さんもよく遊びに来ていたという、その家は一見ごく普通の家庭である。 そのソファーに座り、私はその方と2時間ばかりお話をした後、いよいよ本日のメインの、あるお部屋をみせていただくことになった。私たちが座っていたソファーの横に扉があり、そこをあけて階段をのぼる。すると、徐々に独特な世界への入り口へ向かっていることを思わせる小物などが目にとびこんでくる。小さな入り口からその方は先に屋根裏部屋へ入った。私は後から続いて入った。私はまさに「プサイの間」に立っていた。そしてそこにいるのは、松沢宥氏であった。雑誌などでみた通りの部屋であった。今泉省彦先生がみてくること、と言っていた、繭の中で死んだねずみの死骸もあった。顔を切り抜かれた肖像、宣言文のようなもの、様々な形の石、すべて松沢氏の手あかがしっかりとついている。そこで、松沢氏は「あなたが嫌でなければパフォーマンスをしましょうか。」と言う。私は即答で「大丈夫です。」と言った。私は松沢氏の言うとおり、氏の心臓に手をあてる。そして沈黙が続く。私の手には松沢氏の心臓の音のみが伝わってくる。「私の死を思ってください。」と松沢氏が言う。1970年東京ビエンナーレでのパフォーマンス「私の死」である。その後、少しお話をして、今泉先生に言われたとおり、松沢氏に地図をかいてもらい、諏訪神社の春宮、秋宮、万治の石仏をみて、私は帰った。 帰りの電車の中、奥さんからいただいたおまんじゅうをほおばりながら、一日のことを振り返っていた。すべてのお話が身になり、松沢氏の家へ行くきっかけを作ってくださった今泉先生にも感謝の気持ちかあふれてきた。なによりも、「私の死」が頭から離れなかった。80歳になる松沢氏が、プサイの間で「私の死」を行ったことの重要さ、リアルな感覚がしっかりと私の中に残っている。そして、春宮の方向へ送り出していただいたときにかわした力強い握手を一生忘れることができない。
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