週刊「÷3」

TEXT by Maki Takemoto

竹本真紀 profile
1976
青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。

1992
中学校卒業記念イラスト展 (八戸NHK)文化センター

1994
バンド「根城パラダイス」(八戸西高等学校体育館で一度限りのライブ)

1999
国立弘前大学教育学部小学校教員養成課程卒業
美術科卒業制作展(弘前大学学生会館、弘前VIVRE)

2000
ひいらぎ展 (柏高島屋ステーションモール市民ギャラリー)
美学校トンチキアートスクール入校 千葉県柏市在中

今後の予定
ターナーACRILAWARD2000展(東京展 ザ・グラウンド 13.1.16〜21 札幌展 スカイホール.ササンギャラリー '01.2.6〜11 大阪展 ギャラリーKURANUKI '01.2.18〜24 名古屋展 電気文化会館 '01.3.13〜18)

「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜

new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催

'01.7 柏寺島文化会館で個展開催

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>>TIMELAG/RAGTIMEに参加


 土佐正道氏とステージに立つことになった。ゴージャラスのコピーバンドだ。ゴージャラスの曲は1曲しかきいたことがない。小沢剛トンチキクラスにいたころ、ゲストで来たゴージャラスにきかせてもらったのだ。しかし、土佐さんは曲をきかなくてよいという。土佐さんがアレンジ(?)したものをきいてライブに出る。土佐さんとバンドをやるにあたり、わたしは明和電気のライブに一度いったきりで、いわゆる土佐さんの仕事というものをよく知らないので、明和電気のCDをかしてほしいと言っていたのだが、土佐さんが「これあげる」といって取り出したのはウインクのCDだった。意表をつかれたが、もらえるもんはもらっておこう、と思い、ちょうだいした。
 土佐さんと会ってミーティングをしたり、トンチキで一緒だったかなさんと話したりするうちに、久しく自分が自分自身の輪郭を感じることを忘れていたことに気づいた。自分の立ち位置を自分で想定するという回路をしばらく使っていなかった。自分が人前にたってなにかするとき、自分の気持ちのいい立ち位置を想像する。教壇にたって授業するとき、バレーボールの試合で相手コートを睨んでるときなどでその回路は使われていた。も少しさかのぼると、高校のとき、大切な全校集会をだいなしにする病気に取りつかれていて、先生が不快にならない程度のいたずらをねらってやってみたりしていた。そのときの気分と今ライブをするにあたり、使う頭の回路は同じ回路のようだ。しかし、その回路はちょっとさびついていて、ぎしぎしいっている。なんでも使っていないと使えなくなってくるようだ。特に自分の才能。よく土佐さんは「才能を出し惜しみしちゃいかん。」というのだが、自分がどんなことできたかも忘れていることがある。でも本当に出し惜しみすることはある。わたしはかなり多い。できるのにできないふりをしてみたり、無知なふりをしてみたりすることがある。上京してから特にそんな癖がついた。本当はよくない。本来自分があるべき姿でいられないのだから。しかし、本来の力は「こいつはできる」と思ってくれる人の前でだけ、発揮される。まるで頑固な職人爺さん状態。「自分のテリトリーをおかされたらその場から離れろ」というのが、上京して最初にバイトした先の料理職人教えで、その職人は宮内庁御用達の料理人だったにもかかわらず、料理にかんしては素人の店長に、盛りつけをなおされたりしていた。料理職人もそんなことされてはおもしろくない。本当はできるのに、できないようなふりをしたり、自分の持ち場を侵されるとがつんと怒るか、知らないふりしてどこかへ行ってしまう。しかたがない、それが長年周囲とうまくやっていくために頑固職人が培ってきた技なのだ。職人はよく、「けんかしろ、竹本の年で落ち着く必要はない。」と言っていた。けんかばかりして周囲の冷ややかな目をあびてきたわたしにとって「けんかしろ」という一言は大きかった。世の中ほとんど「けんかはやめて」状態。確かに怒ると負けなときはあるが。怒るべきときに怒らないのはその場は穏便でも、理不尽がそのまままかりとおってしまう原因になっていく。「怒る」というのもひとつの才能。わたしは「能ある鷹は爪をかくす」でありたい。しかし、かくしすぎても才能は死んでしまう。かくしつつ、才能をいかす方法を土佐さんはやっている気がする。


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