週刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | わたしは今命がけで怒っている。なぜ命がけかというと自分の生活、生きるための糧となっている仕事をなくしてしまっても人として言わなければならないと思っているからである。それと、そのことをホームページに書いている、という行為もそうかもしれない。わたしはアルバイトで某キュレーターの指示でアラーキーの生ポラロイドを2000枚壁面に貼る仕事をまかせられた。普通なら2日3日かけてやりたいものを1日で展示する。わたしは同僚の裕太君を道連れに、朝一でそれにとりかかった。まず2000枚写真を貼るために糸を貼って平行を出したり基準を決めたりした。すると小沢剛登場。裕太君もわたしも学校は違うが教え子なので、もうすぐパパになる小沢さんに「おめでとうございます。」と半ばひやかしで挨拶する。いつもならお手伝いするのだが、アラーキー2000枚に集中するため断念。後で様子をみにいくと一人で必死に展示していた。下作りが終わり、いよいよ写真貼りが始まった。 それからが地獄だった。 2000枚貼るということでわたしと裕太君の頭の中にはひたすら写真を貼っていく様が描かれていたかと思う。しかし違った。貼る写真をその場で決めていくので、キュレーターが迷っているとその分時間があく。一度貼ったものをもう一度剥がして、別のものととりかえて。ということもある。平行に貼らなければならないので正面で目線で貼っていると画面が見えないからよけてちょうだいといわれる。そのうち追いつかないのでもう一人写真を選ぶ人が出てきた。これがますます能率を悪くさせた。選んでいる人が悪いのではない。選んだものに対してキュレーターがだめだしするのだ。そのうちだんだん選べなくなって、しばらくわたしが待っている状態もあった。こんなやりとりそのものがアラーキーの作品スタイルとは全く違うような気がする。裕太君もわたしも平面作品を作っているので、写真の選び方のセンスのなさもしだいにわかってきた。アラーキーはなぜこの人にまかせたのだろう。展示に集中するというより、「わたしは荒木さんに作品をまかされているのよ。」という余裕のある態度がしだいに許せなくなってくる。この写真好きとかなんとか荒木批評してないで早く貼るもの選んでくれー!!という感じ。あくまでも業者なので言われるがままにやるしかない。それでも途中で耐えかねて上司になんとかしてくれ!という。 しかし、どうにもならずやるしかない。いままで作家やキュレーターのわがままはいやというほどきいてきた。しかしそれはよい作品ができるためならばいくらでも耐えられた。しかし今回は何か、そのキュレーターのアクセサリーを作っているようで、しかもわがままに耐えてもよい作品ができてこないという最悪の事態になってしまった。写真1枚1枚はやはりアラーキーの気がでている。それが2000枚もならべばそれなりに圧倒されるだろう。しかし、それが全体としてそこでよい作品でありえるかというとどうかはわからない。しかし実際の美術界なんていろんなことおかまいなしでメディアがとりあげていく。こんな血へど吐く思いをしながら作品をとりつけている仕事が雑誌には「アートの仕事」なんておしゃれに取り上げられ、「そこで働けてうらやましいですぅ」なんて言われたりする。アートってなんだ。アートを語れば人を犬のように使っても許されるのか?アートを語れば大量のゴミをだしてもよいのか?そんなんだったらアートなんて死ね。いらない。 肩腕に「SHINE!ART!! 」の言葉をきざみ、オープニングに参加。英語読みでもローマ字読みでも可。アラーキーにショウカイされる。「体ではらうから」とアラーキーにいわれる。かたく握手する。アラーキーみてろよ。とおもう。帰りぎわに奈良さんおそう。「せば!」というと「せば!」と帰ってくる。津軽弁で「じゃ、またね!!」の意味。 アラーキーの展示、つらかったけど評判がよかったらしい。アラーキーにまでなると誰がどのように展示しても、アラーキーの作品なんだ。
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