週刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | エディット・ピアフを聴きながら、足の踏み場のない部屋を片付けていると、宅配便がやってまいりました。 今年も祖母から林檎が送られてきました。箱の大きさは去年よりひとまわり小さくなっていましたが、実家の生活も決して楽ではないのに無理をして送ってくれたようです。祖母には見栄とかそういうのとは別で、最低どんなにお金がなくてもこれだけははずせない、といった感じのお金の使い方をするようで、母親にはそれが無駄遣いにみえてしまうこともあったようでした。ただ、そんな祖母の心遣いのおかげというのか、竹本家は結構貧乏でも表にはそう見えないところがありました。例えばどんなにお金がなくても庭にはお花がなくてはならない。とか。白髪がでてきたら染めるとか。相当年がいっているので遠く離れて暮らしていると本当に心配になります。 そうですね、今週の÷3は祖母のお話でもします。といっても祖母はわたしの3倍くらいは生きているので今までどんな人生を送ってきたのかは本当に一握りしかわかりません。祖母は看護婦でした。東京の日赤病院だったと思います。その後八戸の日赤病院でも働いていました。祖母は東京で暮らしていたせいかとても言葉遣いのきれいな人で、そのせいでご近所の輪に入れなかったこともあったようですが、それを崩していく努力もしたようです。 祖母は頭が非常にきれる人で、負けん気の強い人です。父親のリストラなどが要因でなくしてしまった家も土地も祖母の作ったものでした。わたしが6つのときに亡くなった祖父は学校の用務員さんでしたが、祖父が家事をしていたとか。 祖父もとても頭のきれる人で、絵をかいたり、ヴァイオリンをひいたりしていたようです。わたしが物心ついたころにはもう祖母は看護婦ではありませんでしたが、祖母はヴォランティアやら踊りやら書道やらなにかしら奔走していたように思います。わたしは4歳から保育園に行きましたが、その前は祖母がオリジナルの教材を作ってくれて楽しく数字や言葉を覚えた記憶があります。祖母は本当は学校の先生になりたかったらしく、それを今でも悔やんでいます。その念というものは自然と遺伝していくもので、わたしは先祖のそんな念を全て請け負っているのだと占い師に指摘されたことがあります。しかし占い師に指摘されなくともなんとなくはそんなことを思いながら生きてきました。 今回「叶わなかった願い供養」という名目で展覧会をさせていただいてますが、叶わなかった強い願いは人が死んでも残って、受け継がれている気がします。わたしは常に会ったこともない先祖の気を感じながら生活してきたところがあります。それを強く感じる場所というのが今はなき生まれ育った家のぼっとん便所でした。 わたしはトイレで展示をやることになったとき、すぐにそのことを考えました。しかし展示そのものはそんな重いものにはならないのは、現在のわたしと信仰というものの関係がそれほど密接でないからだと思うのです。土俗がリアルかというとそうではないので、あのような展示になるわけです。古くからの信仰や土俗的なものと並んだら芸術は負けます。 わたしが以前いろんな方に「芸術でないものとは何か」とアンケートをとったとき、村上善男先生の返信に「数年前、『宮城県美』で企画された『東北の造形』展に出品された農具・漁具などと併陳されたいわゆる絵画、彫刻もまたそれら道具の前に、ほとんど『芸術でないもの』に降格され、単にオブジェに映ってしまったのはなぜ?」というのがありました。芸術はそれらの前では降格してしまいますが、それ単独では時にはそれら以上のものも表現しうること の可能性を信じて、作り続けるというわけです。
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