週刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | アルバイトでロボット制作中です。タミヤのギアはすごい。タミヤのギアは作品に一度使ったことがあります。トンチキアートクラスで「なすび画廊」の弟分(?)「トンチキ画廊」を神保町界隈で行ったとき。なんだか意味不明の作品を作ってしまいましたが、わたしは今はなき美学校のそばにあった中古レコード屋「ライナーノーツ」にトンチキ画廊を置かせてもら いました。 『説明しよう!トンチキアートクラスとは美術作家小沢剛氏講師のクラスで神田神保町にある美学校で2000年5月頃から1年間だけ存在したクラスである。 なすび画廊とは小沢剛氏の作品で、家の玄関によく見られた牛乳箱を小さな移動式画廊にしたもので、トンチキ画廊もそれに習い、各自自分の作品をトンチキ 画廊の中に入れ、神保町界隈に置かせてもらう。その際交渉も自分でやるというもの。』そんなわけで、わたしはもともとライナーノーツに置かせてもらおうと決めてから作品を作っていたので、なんかレコードのように回るものを作ろうとして、タミヤのギアを使ったのでした。 制作中のロボットには小さなカメラが仕込まれています。障害物にぶつかるとセンサーが感知して進行方向を変えます。このバイトってこんなことまでやるのね。イメージしか考えなくても作家と呼ばれてしまうのね。 友人から遺書がメールで届きました。遺書が届いた2時間後に気付きました。遺書を何度も読み返しました。文才のある人で、文章がかなり洗練されていて、わたしはその中に死ぬ意味の言葉を見たような見なかったような気がして何度も読み返したのです。どんなにつらい目に遭っても「死にたい」という言葉を口に出さなかったのに。わたしは慌てて友人宅へ電話しました。出ませんでした。携帯にも電話しました。出ませんでした。もうとっくに終電は終わっているし、駆けつけることもできません。とにかく他の友人のところに何か連絡はなかったか電話をしましたがわたしの知っている友人の中ではメールが届いたのは私だけでした。遺書が届いているのだからまだどこかに心の余裕はあるはずで、死んではいないだろうと願いながらも、心のどこかでは人身事故で電車が止まってしまったと きの苛立ちのようなものがありました。勝手に手の届かない遠いところへ行ってしまうことへの焦りみたいなものもありました。 もう一度電話してみました。、、、本人が出ました。か細い声で友人はゆっくりと事情を話しはじめました。わたしはだまって耳を傾けました。ただきいているだけでした。友人はすっかり疲れていましたが、本当にこうして話しをすることができて良かったと思いました。わたしはこの友人を天才だと思っています。天才が才能を完全に発揮しないまま消えていくのは本当に残念な気がしました。でも生きていて本当に良かった。わたしはなんとなくこの出来事を忘れないようにしようと思い、ここに記すことにしました。 | |
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