週刊「÷3」 TEXT by Maki Takemoto 竹本真紀 profile1976 青森県八戸市に看護婦の母とバンドマンの父の間に生まれる。 1992 1994 1999 2000 今後の予定 「ガチャポン・トンチキ・プロジェクト」東京都現代美術館 ギフト・オブ・ホープ展内 '01.1.20.2:00〜 new!'02.2 銀座小野画廊IIで個展開催 '01.7 柏寺島文化会館で個展開催 | 府中美術館で行われている高松次郎展の関連イベントの中ザワヒデキ氏と真武真喜子氏の講演会に行ってきました。久しぶりにお会いする中ザワさんですが、髪型が夏仕様になっておりました。真武真喜子さんは、国際芸術センター青森の学芸員です。ということもあり、とりあえずお名刺だけでもわたしておこうと思いまして、講演会に向かったわけです。 講演自体は、心地よい退屈さで、高松次郎さんのことがとてもわかりやすくレクチャーされてました。「高松次郎」という人を知ったのは、大学の村上善男先生の講義でした。「ハイレッドセンター」の「ハイ」で、60年代に山手線でパフォーマンスをしたということを知りました。今考えると村上善男先生がデザインの授業をしていたことがとても不思議ですが、ほとんど内容は現代美術講義でした。バウハウス、日宣美、建築、文学、土俗、村上先生の体験談と、非常におもしろい授業でした。そしてある日、新聞でみたのか、高松次郎が亡くなったということを知り、廊下を歩いていた村上先生をつかまえて、「高松次郎さん亡くなりましたね。」とお話したのを思い出します。村上先生は言葉使いや礼儀作法にも厳しく、高尚なイメージがありましたが、わたしはどんなアホな質問でもとにかく近寄っていってきいていました。わたしの学科の小学校教員養成課程では村上先生のゼミに入る事ができなく、ちょうど村上先生の退官にもかぶっていたのでどっぷり入って勉強することはで きませんでしたが、わたしは廊下で会ったり、本屋さんで偶然お会いしたりしたときに、いつも貴重な言葉をかけていただいていました。 大学卒業後、大学院受験の落選結果を確かめたその足ですぐに美学校へ行き、今泉省彦先生に会います。「どこから来た?」「弘前です。」「じゃ、村上がいるな。」という話から、つながって、後にこの人がハイレッドセンターの仕掛人だということを知るわけ です。その後、小沢剛クラスで出会うことになる中ザワヒデキさんの「方法主義宣言」は全く理解できずに、自分の中からわかる情報をひっぱり出したのが、村上善 男先生の古文書を裏向きに貼るという方法で中ザワさんの漢字の作品を解釈しようとしたところ、中ザワさんは村上先生の作品ののったペーパーをかばんからふと取り出したのでした。 そして今回の中ザワさんの高松次郎レクチャー。そして国際芸術センター青森の学芸員真武さんと、どんどん不思議な糸で繋がるわけなのです。高松次郎さんにはもう、出会うことはできないけれど、わたしにとっては高松次郎氏が他人ごとだとは思えないのでした。
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